歴史的な偉人

埴谷雄高はにやゆたか


埴谷雄高(作家 1909‐1997 没年87歳)

本名 般若豊(はんにゃゆたか)台湾新竹生まれ。
主な著書:『死霊』『闇のなかの黒い馬』『不合理ゆえに吾信ず』ほか

戦後文学を代表する『死霊』の作家、埴谷雄高と小高の関係は、埴谷の祖父、般若源右衛門佳景の代まで遡ります。埴谷の祖先は、14世紀初めに相馬氏が下総国から小高入りした時に従った家臣団の一つでした明治維新以後の廃藩置県により、小高の岡田の土地を与えられましたが、祖父佳景は、武士気質が強かったためか、畑仕事などせず、与えられた土地を全て手放してしまいました。

埴谷の父三郎は、税務吏員から、台湾製糖株式会社に転職し、退職後に先代が売り払った小高の土地を全て買い戻しましたが、埴谷の代で、不敬罪、治安維持法違反などにより収監されたことなどから、再び小高の土地を手放すこととなりました。

終戦後から50年をかけて『死霊第9章』を書き上げた2年後に脳梗塞のため87歳で逝去しました。青山墓地に埋葬され、相馬家墓所が隣接していることは、不思議な縁と言えます。

埴谷は、中学生時代に、小高に住んでいた父を訪れ、数日間過ごしたことがありました。また、福島に来訪した折に小高にも足を運ぶことがありましたが、居住したことはありませんでした。しかし、相馬武士の末裔であることの誇りと、その墳墓の地に対する断ちがたい執着を持ち、本籍地は、先祖の墓がある小高から生涯変更しませんでした。

埴谷・島尾記念文学資料館には、生前、埴谷が揮毫した「雄高は小高より發せり」が保管・展示されています。単なる語呂合わせとは思えない真剣な思いが込められています。

島尾敏雄しまおとしお


島尾敏雄(作家 1917-1986 没年69歳)

横浜市生まれ
主な著書:『死の棘』『出発は遂に訪れず』『日の移ろい』『夢の中での日常』ほか。

島尾敏雄と小高の関係は、横浜で輸出絹織物商を営んでいた父四郎、母トシの出身地が小高町(現南相馬市小高区)であることに関係します。四郎は大井、トシは岡田の出身です。

島尾は、小高を「いなか」と呼んで親しみ、夏休みなどを利用して母方の実家に宿泊しては、いとこたちと遊び、祖母キクから昔話を聞くことが好きでした。また、大正12(1923)年の関東大震災には、島尾は療養のため小高に来ており、偶然にも家族全員が迎えに来ていたことで、震災を免れることができました。このような幼少期の体験が島尾文学の礎となったと言えると思います。

第二次世界大戦で混沌とした昭和18(1943)年に海軍予備学生に志願し、翌19(1944)年に海軍少尉に任官、第十八震洋特攻隊の隊長として加計呂麻島に赴任したときに大平ミホと出会いました。

終戦後、島尾は神戸に復員し、その後ミホと結婚しました。その後、作家を目指して上京しましたが、ここでの生活がミホの心を壊しました。その生活の様子や転居を繰り返した悲惨な日々が代表作『死の棘』に描かれています。

ミホの療養のため、ミホの故郷の奄美大島に長年住んでいました。島尾は、相馬地方への移住を考え、居所を探しましたが、ミホの意向により、実現しませんでした。

鹿児島に移り、ミホの精神も安定し、作家活動もこれからというときの昭和61(1986)年11月書庫の整理をしている最中に脳梗塞により69歳で逝去し、小高区大井の墓所と鹿児島県瀬戸内町加計呂麻島(特攻隊基地跡地)に分骨されました。

鈴木安蔵すずきやすぞう


鈴木安蔵(憲法学者1904-1983 没年79歳)

主な著書:『憲法の歴史的研究』『憲法制定とロエスレル』ほか

鈴木安蔵は、現在の日本国憲法ととても強い関わりがあり、それはGHQの「改憲案」に最も大きな影響を与えたと言われた「憲法草案要綱」を作成した「憲法研究会」の一員であり、間接的起草者と言えることです。このことは、映画『日本の青空』(2007年)の題材として扱われ、小高神社等で映画のロケが行われました。

安蔵は、旧制相馬中学校から仙台の第二高等学校に進学し、哲学を志して京都帝国大学文学部哲学科に入学するも、「社会の矛盾を解決するために経済学が必要」と同大学経済学部に転部しました。

「人民の解放に役立つ理論と実践を」という考えから、マルクス主義理論の研究や、京大社研と労働組合・農民組合との連携により設置された「無産者教育」の講師などに熱中していた大正15(1926)年に、治安維持法違反事件第1号の「日本学生社会科学連合会事件(学連事件)」として検挙され、大学を自主退学しました。治安維持法違反等の有罪判決の確定後、豊多摩刑務所に2年間服役しました。

服役中は、憲法学者の著書をほぼ全て読み、日本の憲法学について考えを深め、服役後、独学で憲法学や政治学を学び、鈴木憲法学成立の契機となります。

日本国憲法の成立後は、昭和27(1952)年から静岡大学、愛知大学、立正大学で教授を務め、憲法学について教壇に立ちました。79歳で逝去しました。

小高区には、鈴木安蔵ゆかりの建築物として、国登録有形文化財である鈴木家住宅がありますので、ご興味のある方は、訪れてみてはいかがでしょうか。

「鈴木安蔵を讃える会」について
  1. 発足 2020年 夏

  2. 会員 2022年12月現在 全国から約370名

  3. 目的
    ①鈴木安蔵の業績の顕彰、皆様への敷衍
    ②鈴木家住宅の保存、管理、補修
    ③鈴木家住宅の活用

  4. これまでの活動
    ①住宅の取り壊しを中止、保存
    ②住宅の補修、清掃、管理
    ③住宅の標柱、案内看板の設置

  5. 連絡先
    会長 志賀 勝明
    〒979-2533
    福島県相馬市坪田字八幡前21
    TEL・FAX 0244-26-4645
    携帯    090-9530-5524
    事務局 山崎 健一
    E-mail:yamazakiken1@gmail.com


豊田君仙子とよたくんせんし


豊田君仙子(俳人 1894-1972 没年78歳)

本名:豊田秀雄
主な著書 句集『柚の花』、俳誌『曲水』、『浦』

豊田君仙子は、福岡(現小高区福岡)に生まれ、教員をしておりました。最初に赴任した学校は、女場尋常小学校です。その後、29歳の若さで、信夫郡佐倉尋常小学校(現福島市立佐倉小学校)の校長に就任し、八沢小学校、金房小学校の校長を歴任しました。

俳句の出発点は、福島師範学校時代に句会に誘われたことでした。教員として帰郷し、さまざまな俳壇への投句、俳誌『浦』の創刊、当時盛んに行われていた句会にもよく参加していました。

昭和16(1943)年、人生の転機が訪れ、福浦村助役に抜擢されますが、業務多忙により俳句からは遠ざかってしまいました。助役退任後は、福浦村教育委員会教育長を務め、小高町合併後は、小高町教育委員長、文化財保護調査委員長を務めました。また、俳壇に復帰し、『福島民友新聞』、『福島民報』、『NHK郡山放送局ラジオ文芸』などの俳句選者などを務めました。

東声(とうせい)(きょ)」と呼んだ自宅には、代表句「柚の花や 繭売りすみて 月夜なる」の句碑があり、東日本大震災の津波の被害を受けましたが、小高区福岡地内に移築されました。福島県内には、この句碑を含め、君仙子の句碑が19基点在しております。

昭和42(1967)年、小高町功労者表彰を受賞します。この時期、最愛の妻キクが亡くなり、その悲しみの中で俳句を自選し、昭和43(1968)年、句集『柚の花』を発行しました。78歳で逝去しました。

大曲駒村おおまがりくそん


大曲駒村(江戸川柳研究家 1882-1943 没年60歳)

本名:大曲省三
主な著書『川柳大辞典』『枯檜庵句集』『東京灰燼記』

大曲駒村は、俳句、江戸川柳研究家、ルポライター、編集者、など、多面的に活躍した人でした。

俳句の分野では、鈴木安蔵の父、鈴木余生らと、小高に俳句グループ「渋茶会」を結成しました。鈴木余生が逝去した後に、「浮舟会」を作り、小高俳壇草創期のコーディネーターとして重要な役割を果たしました。明治20年から30年代に正岡子規と一門らが始めた和歌の一大革新運動にも参加し、小高の俳句を中心とした文化活動を開拓しました。また、福島県内の俳人に呼びかけて河東(かわひがし)(へき)()(どう)高浜(たかはま)虚子(きょし)などが来県した時の作を持つ県外作者も含め300人の2,200句を収載した画期的な選句集『(そん)巌集(がんしゅう)』を刊行しました。その後、東京に移り、自選句集『()()(あん)句集(くしゅう)』を刊行しました。

ルポライターとしては、関東大震災の被災直後、東京市内の罹災地を徒歩で見聞した震災ドキュメントをわずか1週間で書き上げ、最初の大震災ルポルタージュとして『東京灰燼記(かいじんき)』を震災の1か月余り後に出版しました。

江戸川柳研究では、昭和3(1928)年、『誹風末摘(はいふうすえつむ)(はな)通解(つうかい)』の刊行を開始し、完結まで5年を要しました。その後の昭和14(1939)年から『川柳辞典』第一輯の配本を始めました。多くの先人が挫折し、出版社も尻込む困難な事業でしたが、資金調達、編集、校正すべてを駒村一人でやり遂げるまで、その年数に15年の歳月を要しました。

晩年は、句友たちの遺稿の編集、『永井荷風(かふう)氏著作書誌』の作成準備を進めていましたが、昭和18(1943)年、脳溢血により60歳で逝去しました。

半谷清寿はんがいせいじゅ


半谷清寿(実業家 1858-1932 没年74歳)

主な著書『将来之東北』『養蚕原論』『養蚕術』『官民調和策』など

半谷清寿は、小高の繁栄のため、実業家として活躍しました。酒造業の開業に始まり、養蚕業を盛んにすべく、蚕談会を組織し、大井に養蚕研究室を設けました。その後には、相馬織物会社を設立しました。これ以外にも、相馬精錬株式会社、東北機業、小高銀砂工場の設立と多方面にわたる事業を興しましたが、その中でも小高羽二重をはじめとした相馬羽二重業は、代表的な業績であると言えます。

また、清寿は明治18(1885)年に福島県会議員となり、その後、明治45(1912)年から3期9年にわたり、衆議院議員を務め、政治家としても活動しました。

国会議員となった時期と前後しますが、理想の村づくりを求めて双葉郡富岡町夜ノ森に入植し、その記念300本の桜を植樹しました。これが夜の森公園の桜並木となっております。

代表作である『将来之東北』は、東北地方の開発に取り扱う諸問題について、総合的・系統的に論じた最初の書籍です。また、当時の東北地方の現状分析を多角的に捉えている点は、東北学の先駆とも言えます。

また、小高の夏の風物詩として「火の祭」が相馬野馬追の中日に行われますが、これは清寿が、雲雀ヶ原から騎馬行列が帰る際に、沿道に松明や提灯をかざし、騎馬武者に対し慰労の意を表す習慣を元に考案したもので、100年以上にわたり引き継がれ、現在に至っています。74歳で逝去しました。

おだか街あるきMAP

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