大悲山
- 大悲山の石仏
大悲山の石仏
小高区泉沢にある薬師堂石仏・阿弥陀堂石仏・観音堂石仏は、「大悲山の石仏」と呼ばれ親しまれています。仏像の様式から、製作時期は、平安時代前期と推定されます。1千年以上も前にこの地で比類なき仏教文化が花開いたことを示す貴重な歴史遺産であることから、昭和5年に国史跡に指定されました。東北地方で最大・最古の石仏群であり、栃木県宇都宮市大谷磨崖仏、大分県臼杵市臼杵磨崖仏と並んで日本三大磨崖仏に数えられます。日本有数の石窟寺院と評価されるにもかかわらず、この石仏を作った人達や歴史的背景は詳しく分かっておらず、未だ謎の多い石仏群です。
◎薬師堂石仏
大悲山の石仏の中で最も保存状態が良く、凝灰質砂岩を刳り抜いた間口15m、高さ5.5mの岩窟の壁面に、浮彫で4体の如来像と2体の菩薩像を、線刻で2体の菩薩像と飛天を彫り出しています。首が太く、肩が張り、胸幅の広い、量感のあるどっしりした如来坐像の姿は、平安時代前期の特徴を備えています。
◎観音堂石仏
大悲山の石仏群の本尊であったとされる十一面千手観音坐像で、保存状態は良くないものの、高さ9mを測る日本最大級の石仏です。厚肉に彫り出されたたくさんの手のうち2本を頭上に挙げて化仏をささげ持つ独特のポーズは、京都の清水寺の本尊である十一面観音像と共通することから、「清水型」と呼ばれています。観音像の左右両翼には、薄肉彫で数多くの化仏が刻まれています。この磨崖仏は、元禄期に奥州中村藩主相馬昌胤によって奥相三十三観音が定められた中の第二十七番札所になっています。
◎阿弥陀堂石仏
形も明らかでないほどに剥落が激しく、現在は、仏像と思われる芯の部分を残すのみで、阿弥陀仏が刻まれていたと伝えられています。
◎大悲山の大杉
薬師堂石仏の前庭石段そばにあり、目通り8.4m、高さ45mを測る県内有数の大木です。樹齢は、千年に及ぶものと推定され、薬師堂石仏が作られたころに、育ち始めた木であると考えられます。福島県の天然記念物に指定されています。
◎大蛇物語公園
歴史と自然を満喫できる空間として整備された公園で、地元に伝わる大蛇伝説が描かれている塀や大蛇のモニュメントなど、大悲山の歴史を感じながら散策することができます。
所在地:小高区泉沢字薬師前ほか
https://goo.gl/maps/42WHzs1DXu4LsDvn8
所有者:慈徳寺
神社/仏閣
- 相馬小髙神社(小高城跡)
相馬小髙神社は、中世の奥州相馬氏の居城であった小高城跡にあります。小高城は、1336年に相馬重胤の子光胤によって築城されてから、江戸時代の初めまでの約280年間、奥州相馬氏の居城でありました。奥州相馬氏は、この城を拠点として南北朝の動乱や伊達氏との抗争を繰り広げました。小高城は、中世の城としては小規模なものですが、土塁などが現在もよく残っており、その姿から、別名を「紅梅山浮舟城」と呼ばれ、住民に親しまれています。
江戸時代になり、相馬氏が中村城(相馬市)に移ったあとも妙見が祭られており、明治時代に小髙神社、戦後に相馬小髙神社と改称しました。現在は、武家文化の一端を受け継ぐ伝統行事、国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」の3日目の野馬懸の祭場地として広く知られています。そして、相馬小髙神社に奉納されている県指定有形文化財「相馬野馬追額」などから江戸時代の野馬追の様子をうかがうことができます。
初詣には、多くの参拝者で賑わい、春には、桜が咲き誇る名所としても知られています。
所在地:小高区小高字古城13
- 小高山同慶寺
同慶寺は、1213年、明岩和尚が小高山大林寺として創建したのが始まりとされます。1496年、奥州相馬氏13代相馬盛胤は、三春城下の曹洞宗天沢寺の遠山祖久和尚を招き、先祖や家臣の供養をしました。この時、同慶寺と改称するとともに、天台宗から曹洞宗に改宗しました。
江戸時代以後は、相馬氏の菩提寺となり、境内には、21代昌胤と23代尊胤を除く16代義胤から27代益胤までの相馬氏当主とその夫人など一族が葬られています。中でも、伊達氏と戦乱を重ねていた16代当主義胤は、甲冑をまとい、北方の伊達領に向かって葬られたと伝えられています。
墓地には、18代義胤を弔った墓堂のほか、大きな五輪塔が整然と立ち並んでおり、大名家の墓地としての風格を備えており、江戸時代を通じて国替えのなかった相馬氏の歴史を物語るともいえるでしょう。このような近世大名家の墓地は、地域の歴史として重要であることから、市指定史跡に指定されています。
所在地:小高区小高字上広畑246
浦尻貝塚
- 浦尻貝塚
浦尻貝塚は、縄文時代の集落跡です。約5,700~2,800年前(縄文時代前期~晩期)という長い間営まれていること、約7ヘクタールにも及ぶ大きなムラであることと、『貝塚』があることが特徴的です。
『貝塚』とは、「貝がら」などの「食べかす」を捨てたものが、山のように積み重なったもので、普通の遺跡では、腐ってしまう魚や獣の骨が、何千年たってもそのまま出てくることから、遺跡の中でも特に重要なものとされています。
浦尻貝塚の『貝塚』は、1.8mもの厚みがある、とても大きいものが見つかっており、縄文土器や土偶のほか、シカの骨で作った漁具なども出土しています。
また、浦尻貝塚では、各年代別の『貝塚』があるので、縄文時代の食べ物の取り方や海の移り変わりなども知ることができます。これらのことから、浦尻貝塚は、縄文時代の福島県を代表する『大規模貝塚がある中心的なムラ」と評価され、その歴史的価値は高いことから、平成18年に国史跡に指定されました。所在地:小高区浦尻字南台
- 「貝塚観察館」公開について
浦尻貝塚縄文の丘公園について
国指定史跡「浦尻貝塚」では、貝塚観察館のほか、史跡全体を見学できるように現在も整備を行っています。
公園全体としては、令和6年9月に整備が完了する予定ですが、貝塚観察館については先行して公開を開始しています。
貝塚観察館について貝塚観察館では、5,500~5,000年前の500年間作り続けられた貝塚を発掘調査したそのままの状況で見学できます。
全国でも初めての立体的手法による貝塚の展示です。ぜひご覧ください。入館料
無料
開館時間
9時から17時年中無休(年末年始を除く)
場所
浦尻貝塚(小高区浦尻字台ノ前地内)その他
駐車場あり貝層剥ぎ取りの立体展示 「貝塚観察館」公開について
https://x.gd/tMoca5,700年前から“おだかる”?がんばりすぎず、豊かに生きた浦尻縄文人。
https://x.gd/dOvcH